第3章、「悪王子」を探る ―藤原氏の悪王子…〔平安京〕
(1)『燿天記』 貞応二年(1223)に書かれた『燿天記』の記事によれば、日吉社(現・日吉大社)の禰宜(ねぎ=神職.神主の次位)であった祝部成仲(はふりべの・なりなか1099〜1191)が教示した伝えとして、悪王子は、
の二人が崇敬していたと言う(『燿天記』は成仲の死後に成立)。原文は以下の通り。 一、九悪王子事
『耀天記』(『神道大系』神社編二十九日吉p50〜51) この二人を中心にした、「悪王子」信仰の時代背景を探ってみた。 (2)藤原定国(866〜906)
父は藤原高藤(838〜900)。母は宮道弥益の娘・列子(烈子)。高藤は、従二位・内大臣。 姉に醍醐天皇の生母・胤子、弟には「百人一首」で有名な藤原定方がいる。定方の曾孫にあたる藤原宣孝は、紫式部の夫。定方の家系から「勧修寺流」または「高藤流」と呼ばれることになる一流が後世に続き、その末裔として戦国武将の「上杉氏」などを輩出する。 さて、定国の両親の若かりし頃の‘ロマンス’が『今昔物語集四』巻第二十二に滔々と記されている。 ―鷹狩りに出かけた高藤が突然の雨に遇い、偶々、山科のとある邸宅へ駆け込んだ。これが宇治の郡司・宮道弥益(みやじの・いやます)の家で、その娘「列子」と結ばれ、結婚の約束をした。この家の在り処がわからぬまま数年へだてたのちに、高藤は「列子」と、雨宿りの夜に知らずもうけた長女・「胤子」の母娘を迎えに行った。なんとも‘ドラマチック’な顛末。 定国の姉である胤子は、やがて宇多天皇の女御(承香殿女御しょうきょうでんのにょご)となり、彼女の産んだ親王が後年、即位して醍醐天皇となった。 定国の祖父・宮道弥益の山科の邸宅(京都市山科区)は、のちに醍醐天皇によって「勧修寺」(かじゅうじ)という寺院とされた。近傍には宮道神社が(新しい風情ではあるが)、藤原高藤の一族を祀っている。醍醐天皇陵は山科の南方、醍醐の地に‘後山科陵’として営まれる。 定国の室の一人は藤原有実の女(娘)で、二人の間の娘・和香子(大将御息所.たいしょうの・みやすんどころ)は醍醐天皇の女御である。高藤と定国・定方の父子は宇多天皇と醍醐天皇の外戚となったことによって、破格の立身出世を果たしたのである。
定国が初めて官を得たこの仁和三年(887)、‘義兄’である宇多天皇が即位している。その先はトントン拍子の昇進ぶりである。すなわち、
この寛平九年(987)、三十歳の宇多天皇は譲位して、胤子の産んだ醍醐天皇が即位。
醍醐天皇の治世下、この昌泰三年(900)のほんの短い時期(一月〜三月)だけだったが、 「内大臣・藤原高藤、左大臣・藤原時平、右大臣・菅原道真」 という‘豪華な’キャストが並んだ(高藤は同年三月十二日に没)。
この昌泰四年(901)一月二十五日に事件は起こされた。藤原時平・藤原定国・藤原菅根らの工作や讒言(ざんげん)などもあって、菅原道真が大宰権帥(だざいの・ごんのそち)に左遷されたのである。これを“昌泰の変”という。息子たちも配流とされて道真の一家は離散。 また道真の最終官位は右大将・右大臣であったが、その左遷後は、右大将には藤原定国が就任した。また右大臣に源光(みなもとのひかる)が任じられた。 或いはこの時期でもあったろうか、「泉の大将」と称された定国が三十六歌仙で知られる壬生忠岑(みぶの・ただみね)を随身とし、よそで酒を呑んだ勢いにまかせて真夜中に左大臣・藤原時平(871〜909)のもとを唐突に訪ね、時ならぬ夜中の宴に興じたというエピソードが残されていて、時平と定国との一方ならぬ「親密さ」を示している(『大和物語』百二十五)。
この延喜三年(903)に、任地すなわち配流先の太宰府の地にて、菅原道真が没している。 道真は、定国にも‘怨み’を含んでいたと伝えている。約八十年後の永観二年(984)六月二十九日の安楽寺(のちの太宰府天満宮)に降りた道真の‘託宣’によれば、 昔依讒言放我之日。大臣時平卿。光卿。納言定国卿。菅根朝臣。偽称勅宣。召陰陽寮官人。…令呪詛我。 と、道真を害した人物の中に「定国」の名前がしっかりと登場している(『扶桑略記』)。
延喜五年(905)に時平らと共に『延喜式』の編纂を受命したが、定国は、翌六年に没。
この定国の「死」をきっかけに、以後、〈奇ッ怪な事件〉が頻々と勃発することになる。 903年に怨みを呑んで没した菅原道真の「祟り」とされる出来事は、概ね、以下の通り。 906年…藤原定国が死亡 (道真の「怨霊」の犠牲者の‘第一号’と目されている。) 908年…藤原菅根が落雷で死亡 (道真の追い落としに加担。醍醐天皇の侍読。) 909年…藤原時平が死亡 (“昌泰の変”の首謀者。‘道真の祟り’との風評) 913年…源光が泥沼で溺死 (道真の追い落としに加担。道真の後任の右大臣) 923年…保明親王が急死 (皇太子。時平の妹・穏子と醍醐天皇の子。21歳) 925年…慶頼王が夭折 (皇太孫のち皇太子。時平の娘・仁善子と保明親王の子。5歳) 930年…清涼殿に落雷。大納言・藤原清貫が即死。 (清貫は太宰府で道真を尋問) 〃 年…醍醐天皇が、譲位の一週間後に死亡 (落雷事件の衝撃から病臥) 936年…藤原保忠が狂死 (時平の長男) 939年…菅原道真の神勅を受けた平将門が、関東で“新皇”と称す (『将門記』) こうして、菅原道真の「怨霊(おんりょう)」は、都で疫病や災害を伴って、荒れ狂った。 この「祟り」を鎮めるため、京都の北野に「北野天満宮」が誕生する。北野天満宮は、時平の弟である藤原忠平と、忠平の子の藤原師輔によって、その後も整備されていく。 さて、この「祟りの神」すなわち「御霊」としての天神信仰の展開の中で、藤原定国は些か情けない場面に登場させられる事になる。 ―僧の道賢(のちに日蔵)が頓死(急死)して冥界へ行くと、金峯山の蔵王菩薩に案内されて鉄窟に至る。と、一軒の茅屋があり、その中に四人の人物が居た。一人は、衣は有るには有るが、わずかに背中をおおうだけの姿。余の三人は、それすらなくて、裸であった。四人は共に、真っ赤に燃える灰の上にうずくまっていた。獄領が言うことには、衣有る一人は、延喜帝(=醍醐天皇)である。余の裸の三人は、その臣下だった者たちである、と。… これは、『道賢上人冥途記』(『扶桑略記』)に拠ったもので、裸の三人とは、藤原時平・藤原定国・源光のことだとされている。 藤原定国について言えるのは、道真の「祟り」のお蔭で醍醐天皇をも巻き込んでの「有名人」となっている事実である。「勧修寺流」にあっては、きわめて「突出した伝説」を有しているのが、家流の‘祖’とみなされる「高藤」と「定国」の二人である事は、存外重要だと思う。 つまり、氏寺たる勧修寺を中核とする「勧修寺」家一族にとっての最大の“カリスマ”が、「藤原定国」であったと考えられるのである。「あの天神を!」と語られ続けたものであろう。
(3)藤原有国(在国)( 943〜1011) 有国は、親鸞聖人や日野富子など後世に有名人を輩出した「日野」氏一族の‘祖’である。五十三歳までは、藤原在国。藤賢。勘解由(かげゆ)相公(=勘解相公)、弼(ひつ)宰相と称す。
文章生となり、菅原文時(道真の孫)に師事。終生のライバルともなる「平惟仲」とは同窓。学兄に慶滋保胤が居た。 康保元年(964)、「勧学会」の創立メンバーとなる。勧学会とは、文人貴族二十名・天台僧二十名が会して法華経を講じ念仏を唱じ漢詩文を詠ずる“念仏結社”であった。慶滋保胤・源為憲・藤原在国・平惟仲・藤原惟成・賀茂保章などが参加している。
この年に、勧学会のメンバーに多大な影響を与えた空也(903〜972)が没している。 また同年、祇園社が日吉神社(日吉大社)の末社となる。
とはいえ、この事に関する在国(当時、三十一歳)の関与を証する記録は見当たらない。
同年、花山天皇が即位。天皇の乳兄弟である藤原惟成が重用され、有国は惟成に「名簿」を提出して登用の働きかけをしている(『江談抄』)。
僅か二年で花山天皇が譲位。藤原道兼(兼家の子)に誘われて出家してしまう。藤原兼家の策謀があったと言われる(『江談抄』)。これにより兼家が外祖父の一条天皇が即位。
このころ、在国は藤原兼家(道長の父)の「家司」になったのであろう。平惟仲もまた同家の家司になっている。『栄花物語』に「有国は左中弁、惟仲は右中弁にて、…」、また兼家が「有国・惟仲をば左右の御まなこと仰せられける…」とある。
また、第二十代天台座主の余慶への“永祚の宣命”。一回目は山門徒から受け取りを拒否され、二回目の使者(10.29)として在国が立った。 その後、山門・寺門が分立。「悪王子」が示現して教円を推した(『山王利生記』)とされる“長暦の争拒”へと進み、遂には完全に分裂する。
この年、余命少ないことを知った兼家が出家。兼家は病床に在国と惟仲を呼びよせて、関白を誰に譲るべきかと意見を聞いた。在国は、花山天皇の譲位(すなわち一条天皇の擁立)に功績のあった道兼(道隆の弟。道長の兄)を推挙。在国の妻・橘徳子は一条天皇の乳母である。惟仲は、長幼の順を主張して兄の道隆を推挙した(『江談抄』)。が結局は、道隆が関白・摂政(5)となった。兼家が没して(7)以降は、在国は道隆に嫌われ、排斥されること数年に及んだという(『栄花物語』)。 こうして、道隆の娘・定子が中宮(10)となる(‥その家庭教師が、清少納言)。
「除名従三位勘解由長官藤原朝臣在国。大膳属秦有時被殺害之間、依有造意之聞也」 『日本紀略』正暦二年(991)二月二日条
在国が「干されて」いたこの年、菅原道真に「正一位、太政大臣」が追贈され、菅霊の祟りも一段落した。同年の大宰府には、 大弐に藤原佐理(944〜998能書家。小野道風・藤原行成と共に三蹟と称された。実頼(藤原忠平の長男)の孫)、 (「北野天神御伝并御託宣等」『神道大系』所収)
この年に道隆が没(4)。道長が内覧になる(5)や、在国の「活躍」が始まる。
この年、太宰府へは室・橘徳子(=橘三位)を伴う(『栄花物語』)。徳子は一条天皇の乳母で、才色兼備の女性として知られ、紫式部も一目置く存在であった(『紫式部日記』)。 大宰府に貴族などの私的な家政機関の‘政所’を初めて置いたのが在国である。勿論、背後には藤原道長の強い意向があった。在国は、大宰府での任官中「道長の保護下に入り、自ら蓄財のため不正利益を貪る行為も多く、その利益から権門に多くの献物を行い、それにより出世していったといわれ、平安中期に黙認された売位売官の典型的な例ともなった(『本朝麗藻簡注』p.399)」と、厳しい評価が下されている。彼は日宋貿易によって私腹を肥やしていったのである。 また一方で、太宰府天満宮に今も残る「四度宴」のうち、一月二十一日に催される「内宴」は、『安楽寺草創日記』によれば「藤原在国」が始めたとされる(『天神さまの起源』)p.66)。宮中の行事を取り入れたものらしい。
その同じ月に、大事件が勃発した。道長の兄・道隆の二人の子息、伊周と隆家が女性問題のトラブルから花山法皇を侍者に射させた(1)というもので、藤原伊周は大宰権帥に配流となる。この時に太宰府にあって伊周を受け入れたのが、大弐の有国であった。有国は伊周の父・道隆から受けた「排斥」の恨みを忘れて親身に世話を焼いたと伝える(『栄花物語』)。
太宰府赴任からの帰郷後は、道長の「家司」として重んぜられた。一方、同年には平惟仲が大宰(権)帥として異例の赴任を果たす。
寛弘二年(1005)に、宇佐八幡宮が「大宰帥(平惟仲)らの非法」を訴えたことに端を発する“長保事件”によって失脚した平惟仲が太宰府で没する。惟仲は前年の寛弘元年(1004)に厠(かわや=トイレ)で腰を折って重態に陥っていたというが、長保事件は、有国と藤原道長が手を組み背後で操っていたと考えられている。
後一条天皇(母・藤原彰子、外祖父・道長)誕生のこの年、「碁の負けわざ」(=碁に勝った者への饗応)する「播磨守」として『紫式部日記』に記載される(一説に播磨守は、平生昌とも)。
有国の死後、長元七年(1034)に「勧学会」が再々興された。これは、第二十七代天台座主の慶命の尽力によるものであった。慶命は、藤原有国の甥(兄・孝友の子)である。
このように、有国の在世期間中に「悪王子」が示現し、また、祇園社が日吉社の末社となり、祇園感神院は比叡山延暦寺の末寺となっているのである。さらに「悪王子」が、日吉社において「山王廿一社」の中に加えられているのは、決して只事ではない。藤原有国ほども有力な「公卿」の働きかけがあった、と考えるのが妥当であろう。
(4)藤原為経(寂超) (1115?〜1180?1187?) 寂超は、定国や有国と同じく藤原北家の血を引く天台宗の僧にして歌人。『今鏡』の作者として著名である。藤原為忠の三男で俗名は藤原為経(初め盛忠。保延元年(1135)ころ改名)。 さて、為経(のちに出家して寂超)は概ね以下の通り。 天承元年(1131)には、六位蔵人になっていた。
― 藤原隆信は「似せ絵」の名人として今に知られ、神護寺蔵の「伝・源頼朝像(国宝)」などの作者に擬せられる。建礼門院右京太夫との熱烈な恋が知られ、歌人としても著名。 ( 同じ康治元年(1142)に、待賢門院璋子(1101〜1145)が出家。)
為経は、息子の隆信が生まれた翌年に出家した。 この年から、美福門院加賀のもとへ藤原顕広(のち改名して、俊成)が通う。
隆信は、顕広に養われることになる。加賀は応保二年(1162)には、藤原定家を産んでいる。
この年『後葉集』を撰ぶか?これは、新院(=崇徳上皇)が『詞花集』に不満を感じて改撰を命じたものの、藤原顕輔が没して成らなかったからであった(「後葉集序」)。 七月二十三日、「崇徳院」(=崇徳上皇。1119〜1164)が讃岐に流された。崇徳院は時の朝廷に対して激しい怒りのあまり、写経した本に自分の舌を噛み切った血で呪いの言葉を書きつらね、自らを“日本国の大魔王”と称して、爪や髪の毛を伸ばし続けたあげくに、‘夜叉’のような姿となって崩じたという(『保元物語』など)。 …藤原為忠の息子のうち次男以下の、寂念・寂超・寂然の三兄弟 (俗名は、藤原為業・為経・頼業) は、「大原三寂」または「常盤三寂」と称され歌人として知られていた。歌友には西行を始め、藤原俊成(顕広)・平忠度・源頼政ら、『平家物語』に事蹟が記され、名を残した面々が揃っていた。 さて、この寂超が1170年ころに著したとされる『今鏡』に、「藤原有国」が登場する。「碁」の話題に続いて書かれているから、『紫式部日記』の「播磨守」を連想したのであろうか。 『今鏡』の巻九「むかしがたり(いのるしるし)」によれば、
ついに、「定国」と「有国」との「共通点」を見つけ出すことが出来た。すなわち二人は共に、「父親が一度死んでのち蘇生する」という、不思議な「共通体験」をしているのである。 定国の父(藤原高藤)の場合は、『江談抄』(三九)「野篁は閻魔庁の第二の冥官為る事」では、 ― 藤原高藤が、急死した。あれよあれよと見るうちに、地獄の閻魔大王のもとへと連れて行かれ、見ると、閻魔庁の第二席に小野篁が坐していた。篁のおかげで自分は蘇生できたと言い、高藤は庭におりて篁を拝んだ。 冥界(地獄)へ自在に行き来する「小野篁」のイメージは、地獄から「智賢」阿闍梨を連れ出して蘇生させた「悪王子」(「日吉山王利生記」)と深く通じるものがある。 そして、有国の同時代人には陰陽道のスーパースター「安倍晴明」(921〜1005)が居た。 この世と地獄を往来出来る陰陽道の能力は、悪王子を考えるとき、非常に重要な「要素」となっていることは間違いない。 「勘解由相公 藤原有国伝 ― 一家司層文人の生涯 ―」(『王朝の物語と漢詩文』所収)に、驚くべき事実が記されていた。
天延二年(974)に秦助正の邸に示現した「悪王子」は、その「お使い」であることを示すために、邸から祇園社まで「蜘蛛の糸」を曳いていた。秦助正の邸の裏には「蜘蛛塚」があった。さて、この同じころに、「土蜘蛛退治」で勇名を馳せたのが「源頼光」である。 そして、源頼光(948〜1021)と有国とは、母親が姉妹(源俊の娘)の「従兄弟」同士だったという訳だ。ここで、 悪王子 ( ⇔蜘蛛⇔源頼光 ) ⇔藤原有国 となる「説話形成モデル」の連環図式が、完成するのである。 しかも有国は、死んだ父親すらも生き返らせることが出来るほど「陰陽道」に造詣が深かった。青年期の学友であり「勧学会」を共に起こす「慶滋保胤」は、陰陽博士・賀茂忠行の次男である。「賀=よし→慶」、「茂=しげ→滋」との通音換字による改姓の以前、彼は「賀茂保胤」であった。保胤は家業の陰陽道を捨てて紀伝道へと進み、三男の賀茂保章もまた「勧学会」の結衆であった(『天台仏教と平安朝文人』)。その父・忠行の家業である「陰陽道」を継いだのは長男の賀茂保憲で、その兄弟弟子に「安倍晴明」があったことはよく知られている。 ―このように、有国の周辺には「陰陽道」の気配が殊更に色濃い。 ゆえに、《藤原有国が、‘地獄へも行き来し、蜘蛛を神使とする’「悪王子」を信奉した》とされる『燿天記』の記述を、いま私は、漸く肯定することが出来るのである。 (5)祝部成仲 祝部成仲(1099〜1191)は、日吉社禰宜、惣官、正四位上、大舎人頭、石見介と『耀天記』にあるが、詳しい事は判らない。神職にして歌人。日吉大社社家(右方)の「樹下」家の‘祖’。歌人としては、寂超と加賀との子である藤原隆信とも交流があった。
さて、成仲は、自分とほゞ同い年であった法性寺関白・藤原忠通の‘蔵人所’に参仕していた事実は、我々にとって極めて重要である。そうであったからこそ、同じ藤原氏の「定国」や「有国」が「悪王子神」を信奉していたという情報を知り得ただろうからである。 成仲や寂超の生きていた平安時代の最末期は、「院政期」と称される。受領となって巨万の富を得ていた「中流貴族」たちの中でも、特に大きな勢力に成長していた一族に、「勧修寺」・「日野」・「徳大寺」などがあった。 「勧修寺(高藤)」流藤原氏の‘祖’には「藤原定国」がある。 「日野」家(内麿流)藤原氏の‘祖’には「藤原有国」がある。 ―‘祖’とはカリスマ性に包まれた伝説豊かな先祖といった意味である。同じ論理で、 「徳大寺(閑院)」流藤原氏の‘祖’には「待賢門院璋子」が相応しいだろう。傾国の美女にして後に“保元の乱”の因をなす崇徳・後白河の両天皇の生母だからである。 没落しつつある関白家に身を置いていた祝部成仲にとって、「勧修寺」家や「徳大寺」家といった中流貴族の台頭は、決して歓迎できるものでは無かったであろう。 だから成仲は、彼等の‘祖’に対しては、聞くもおぞましい醜名を持つ「悪王子」をこそ崇敬させたのかも知れない。 |
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